視界を切り裂くような渾身の一撃。
今から嫌になるほど対峙する現象。
その最初の一発が、今まさに白帽子の選手の脇を、凄まじい速度で駆け抜けていった。
……サービスエース。
放ったサーブに相手がまったく触れられず、ノータッチでポイントが決まること。
つまりテニスという競技において、たった1球、たった1振りで相手の命を削る最強の一撃となる。
テニスの花形プレーの1つであり、人々はいつだって豪快な、ときに相手の隙をつく技巧的なサービスエースに目を奪われる。
そしてなにより、サーブは正直者だ。
たった1球だけで、これほど相手のセンスと努力の成果を図れるものはない。
それはコート上にいる白帽子の選手を含め、すべてにテニスプレイヤーが無意識に感じることである。
最初の構え。
ボールを上空に狂いなく適正点にあげるトスの正確さ。
下半身の体重移動、体・手首のひねり、膝の溜めなどの全身運動。
ラケットの軌道と振りの速さ。
そして、相手を殺すポイントを躊躇なく射抜く読みと、確実に打ち込めるコントロール。
テニスで唯一、自分ひとりで始まりから終わりまで完結するこの動作は、単純に練習量と上達量が比例する。
そして、テニスという競技に愛されたアスリートは、例外なく抜群のサーブセンスを持っているのである。
白帽子の選手は、この洗練されたサーブのたった1球見ただけで、相対する黒帽子の選手の才能、そして圧倒的な練習量を悟ることになった。
「フィフティーン・ラブ」
彼にとって、もう何度聞いたかわからないその得点コール。
次のプレーに備える黒帽子の男を驚愕の目で捉えながら、白帽子の男は審判の甲高いコールを耳にした。
彼は昔から試合の入りは苦手。
いわゆるスロースターターである。
しかし、今回に限ってはただただ相手が凄まじい。
彼にしては珍しく最初から集中しきっていた気持ちを、さらに引き締めさせる結果となった。
――とんでもない相手と、あたったもんだ。
心の中でそっと苦笑いしながら、白帽子は次の相手のサーブを迎え撃たんと、その腰を低く落とし、ラケットを構える。
――うだうだ考えていても始まらない。まずはサーブが返さないと、ゲーム展開もクソもない。
白帽子の男は雑念を振り払い、自分自身に無理やり発破をかける。
そうして闘志にさらなる火をつけ、静かに相手のサーブを待った。
……テニスの試合では、ゲームの進行中に声を上げないのがマナーなので、プレーが始まる少しの前に静寂が流れる。
しかし、白帽子はこの瞬間がたまらなく苦手である。
集中力とともに、緊張感が一気に高まってしまうからだ。
ただ、それでも、敵から目を離さない。
離せるはずなどない。この相手との勝負は一瞬が大事なのだから。
そうして相手を見ながら、昨日叩き込んだ相手の動作クセなどのデータ、そして先程のサーブの軌道、スピード、回転など、あらゆる情報を頭の中で繰り返し巡らせる。
心臓の鼓動が早い
あぁ、痛てぇな。嫌になってくるね。
そうやって心の中で弱音を吐き、もう一度深呼吸を行う。
……そして、そのちょうど1秒後。
黒帽子の左手からボールが離れ、その惚れ惚れする美しいフォームの頭上から再び弾丸が放たれた。
さっきよりもスピードが乗ったサーブ。
コースは白帽子のラケットを持つ手と逆の方向。
しかもテニスコートのサービスライン上、つまりオンラインのインプレー。(ライン上に落ちた場合、触れた面積に関係なく少しでもラインに乗っていればインプレー)
――殺った。
ネットを挟んだ2人の男は、同時に心の中で叫んだ。
完璧かと思われた。
事実、それは黒帽子の男が頭に描いた理想のサーブだった。
しかし、その攻防を制したのは白帽子の男。
サーブコースを読み切ったプロにあるまじき小心者は、自身の理想の足運びとテイクバック(打つためにラケットを後ろに引き、構えること)を行い、迷いなくラケットを振り抜いた。
ラケット面のスイートスポット(球を打ったときの衝撃が最小限となり、打たれたボールの速度が最も早くなる部分)から弾かれたその一撃。
黒帽子の立ち位置と反対サイドへ、サーブと同じ速さで伸びる。
そして、黒帽子のラケットが届くことなど許さない軌道を描きバウンド、そのままコート後ろの壁へ突き刺さるように衝突した。
……リターンエース。
サーブを返球、つまりレシーブしたボールが相手のまったく触れられず、ノータッチでポイントが決まること。
本来不利であるはずのレシーバーの立場から繰り出される、下剋上の一撃だ。
……衝撃の返球に、会場全体が息を飲む。
打たれた瞬間、誰もがサービスエースと確信したボール。
白帽子の男は自身の読みと度胸、そしてその実力を駆使し、たった一振りでリターンエースに変えてみせたのだ。
歓声が上がる。
いきなりのハイレベルなサーブ・リターンエースの応酬に、観客のボルテージは早くも最高潮に達した。
これから始まるであろう激しい試合に、心躍らせる人々。
ゲームポイント中とはうって変わり、この瞬間の彼らの興奮は収まるところを知らない。
……しかし、この空間内で最も冷静な2人のうちの1人、黒帽子を被った男は今の攻防を頭の中で反芻していた。
――決まったと思ったけど、あれを返すのか。
1ポイントよりも手応えのあったサーブ。
それを完璧に予測し、さらの自分から逆サイドのコートの隅に、オンラインで返球するコントロール。
サーブには絶対の自信があった黒帽子にとって、それは驚愕の1球だった。
サーブの速さが仇になったとはいえ、リターンエースなんて何年ぶりに決められただろうか。
――とんでもない相手と、あたったもんだ。
心の中で楽しそうに笑い、黒帽子は再び1ポイント目と同じ立ち位置でサーブの構えに入った。
「フィフティーン・オール」
自分が最初にサーブを打つゲームにおいて、黒帽子は久しぶりにそのコールを耳にした。
テニスのゲームでは、常にサーブを打つ選手のポイントからコールされる。
いつもなら、サーティー・ラブであるはずのポイント。
しかし、今回は相手の15の数字がコールされることに、違和感とおかしさを覚えた。
――さて、次はどの回転、どのコースにしようかな。
黒帽子は己のサーブ、そして返ってきたレシーブに対する何十通りものシミュレーションを行った。
ダン、ダン、ダンと、手でボールを地面にバウンドさせる、テニス選手おなじみの動作をしながら、静寂とともに集中力を高める。
ポイント間にあるこの静寂、黒帽子は心の底から大好きだった。
……そして、次の勝負の一手が決まる
黒帽子の男は、相手コートで構える白帽子の男を楽しそうに視線を向ける。
白帽子の男は、最初と変わらず緊張の面持ちで黒帽子の男を見据える。
……コート上で戦う者たちしか感じられない、一瞬の勝負の間。
そして、黒帽子の手から三度、ボールが天に向けて放られた。
これから始まる長きにわたる戦い、その3戦目の幕開けである。
――こいつ、またネットプレーかよ!
白帽子はボールを追いかけながら、ついつい舌打ちしたい気持ちを抑え込んだ。
向こうコートから飛んできたボールのスピードはそれほどでもない。遅いくらいだ。
しかし、それは相手がネットにつく時間が十分あるということに他ならない。
そしてなにより、ベースライン(テニスコートの後ろのライン)ギリギリの深さのボールな上、コースも鋭い非常に返しにくいボールだ。
もちろん黒帽子は迷わず前進し、すでにネットの前で白帽子の返球を待ちわびていた。
ネットプレーの大きな利点。
それは、ノーバウンド返球による返しの速さと決定力である。
ネットを挟んでプレーするテニスという競技において、ネットの近くでボールに触れることは、より相手に近い場所でプレーすること。
つまり、相手側からすれば、普通に打ち合うよりも2倍の反応の速さと読みを要求される。
だからといって半端な返球をしてしまえば、その返球はボレー、スマッシュなどのダイレクトプレーで、一撃のもとに叩き落とされるだろう。
そしてなにより。
この黒帽子のネットプレーの精度と駆け引きのレベル、そして判断力の高さは凄まじかった。
――こいつは一体どれだけのセンスがあって、どれだけの練習と経験を重ねたんだ。
無意識の敬意。
試合中に思わず湧いてきたその感情を、白帽子は心に押し込めようとする。
相手を必要以上に上に見ることは自殺行為だと、テニスプレイヤーの本能が叫んだのだ。
……しかし、プレーは動じない。
白帽子はボールに追いつくとすぐに打たず、手元のギリギリまでボールを引きつけた。
膝で溜めを作り、ボールが2バウンドする直前までラケットを振ろうとしない。
その彼のプレーによって、黒帽子はプレーへのさらなる集中力を要求されることになった。
ネットプレーの大きな弱点。
それは判断を間違えれば、1撃でポイントを失う危うさである。
ネットについた後、プレイヤーが動いた方向の逆、もしくは頭を越すロブのボールを打たれれば、ネットプレイヤーに追いつける術はない。物理的に不可能だ。
つまり、ネットプレイヤーはネットに張り付く前に相手の体勢を崩し、「相手が打つ前の駆け引き」で100%勝利しなればならない。
だからこそ、白帽子はボールをギリギリまで引き付けることで、打つ直前まで黒帽子に打つコースを予測させないのだ。
さらに、ネットプレイヤーである黒帽子は、「このプレーの駆け引き」のさらなる難しさを肌で感じていた。
――全然フォームが乱れない。一体こいつはどこに打つ?
本来であればフォームのクセや打つときの体勢で、ネットプレイヤーは相手が打つコースを予測するものである。
しかし、先程から白帽子の男は、どれだけ厳しいコースに打とうとも、つねに同じフォーム、同じ振りで最適解のボールを返してくる。
フォームの乱れなど微塵もありはしない。
――どれだけのフットワーク練習、そして基本練習を重ねれば、これほどの域に達するのだろう。
黒帽子は、白帽子の普段から積んできたであろう研鑽に、心からの敬意を払う。
だからこそ。
――こいつに、勝ちたい。
――こいつを、超えたい。
……プレー中にその目線が交わる。
そして。
白帽子の男がボールを打つのと、黒帽子の男が動き出したのは、ほぼ同時であった。
ゲームセット。
そのコールがコートに響いたとき、激闘の勝者が決まった。
観客の怒号のような歓声の中、2人のテニスプレーヤーはネットの上で握手を交わす。
テニスは野球やサッカー。バスケットなどと違い、自分と相手のフィールドを共有しないスポーツだ。
相手との接触など基本ありえない。
もしネットを超え相手のコートでプレーした場合、ネットオーバーとして失点となる。
つまり、この最後の握手は、テニスコート上において、お互いに直接干渉し合う数少ないプレーなのだ。
何時間にも及ぶフルセットの戦い。
その末に二人は、生まれてきて初めて、お互いに自分の言葉を交わした。
「良いプレーだったよ」
「……勝者の余裕ですかい」
どれだけの素晴らしいプレーをお互いにしようとも、シングルスの勝者はただ1人。引き分けなどありはしない
プレイヤーの優劣は決まらないが、明確な勝ち負けは決まるのである。
……たとえプロの選手であっても、時に負けた瞬間ラケットを破壊してしまうプレイヤーがいるのも事実。
その選手のマナーは決して良いとは言えない。
しかし、ゲームに負けた瞬間だけ、敗者はその破壊行為の世界一の共感者となる。
ただ、その悔しさや歯がゆさを隠し、勝者を称えるからこそ、人々の憧れとなるプロスポーツ選手と言えるのだ。
2人のプロスポーツ選手は、短く言葉を交わした後、互いに背を向けそれぞれの次のステージへ足を進める。
――次は、負けない。
――次も、負けない。
勝者と敗者、こうしてお互いがお互いを刺激しあい、より高みを目指していく。
こうして、その後長年に渡る名勝負を繰り広げる2人の、最初にして伝説の試合1つが、今終わりを告げた。
―――
今回はちゃんと完結させたぞ。
以上、家鴨あひるの3000文字チャレンジでした。
(なお、4800文字)