――ああ、今日も親父を奪った月曜日がやってきた。
寒空の下、男はとうの昔に居なくなった、自分の父親のことを思い出していた。
ただ、その感傷に浸るつもりはない。
彼のことを、社会からも家庭からも逃げた奴だと、いまさら笑う気もない。
なぜなら、今日は男にとって最後の月曜日だからだ。
そう。
男は、父親と同じことをしようとしている。
父親と同じく、繰り返される月曜日に、毎日に、そして自分に見切りをつけようとしている。
……あれだけ、自分たちを残していった父親を恨んでいたのに、男はその父親の道を歩もうとしているのだ。
いつもの駅に着く。いつもの時間どおりだ。
なにひとつ変わらない。
ただ、いつもより足取りは重かった。男にとって、それは意外なことだった。
階段を登る。
まだ足取りは重い。
でも、歩みは止めはしない。
……止めたところでどこへ行くというのだ。
戻ってもまた同じことを考え、繰り返すだけなのだ。
その事実が、その決意が、彼を一歩ずつ前へと進ませていった。
そうして男は、いつもの駅のホームに立った。
周りはいつもの無機質な固まり。
疲れ切った表情。
この中で、一体何人が今日を待ち焦がれ、少年のようなワクワクを持って、ここに立っているのだろうか。
少なくとも、ここにはそんな人間は一人も居ない、男にはそのように感じられた。
そして安堵する。
俺はきっと、間違っていないんだと。
俺はこんな表情を続けるために、生まれてきたんじゃないんだと。
男は、きっと今この中で、自分が1番明るい表情をしていると思った。
しかし、すぐに否定する。
逆だ。
俺はいまこの中で、1番ひどい顔をしているに違いない。
聞き慣れた、いつもの電車のアナウンスがホームに鳴り響く。
男は、静かに目を閉じる。
さあ、もうすぐだ。
きっと多くの人に迷惑がかかる。
罵倒される。
ニュースになるかもしれない。
でも、もういい。
一瞬でいいから、俺のせいでお前らの心が傷つけば良い。
死んだ後なんか、俺には関係ないのだから。
男が最後に思い返したのはとある日曜日、旅立つ前日の、父親の顔だった。
天井からぶら下がったあの顔より、そちらの方が男にとって印象に残っている。
最後に思い出すのがこんな顔なんて。
まったく。
俺の人生なんだったんだろうか。
……そうして男は自分の空虚な人生の振り返りを終え、ゆっくりとまぶたを開けた。
そして、なにか、見覚えのあるものが目に入った
右側から来る電車を確認しようと顔をそちらに向けた瞬間、それが見えたのだ。
横に、同じくスーツ姿の男が立っている。
あの日曜日の父親と、同じ顔をした男だった。
見間違えなどありえない。
そして、そのまま理解する。
数秒後に、彼は飛び込む。
間違いなく、彼は彼の人生を終わらせようとしている。
男には確証はないが、確信はあった。
止めるか?
……俺が?
止めたところで何になる?
あれはもう、決意した顔だ。
衝動的なんかじゃない。
……そもそも同じことをしようとしていた俺が何を伝えられるんだ?
電車が見える。
彼は、大きく深呼吸し、そして……。
やめろ。
その。
その顔をやめろ――
とっくに居なくなるはずだった彼は、心底驚いた顔で男を見ていた。
男は無意識に、彼の肩を掴んでいたのだ。
彼の反応は当たり前である。
見知らぬ男に、人生最大の決意を邪魔されたのだから。
……二人の間に沈黙が流れる。
そしてその沈黙に対し、周りの人間はまた違う沈黙を貫く。
もとから、男たちなど視界に入っていないようだ。
「と、とりあえずこっちへ」
男は人が少ない場所に、彼を誘導することにした。
そして彼を引っ張りながら、自問自答する。
なぜ、こんなことになっているのだろうか……。
正直なところ、男は彼に対し、助ける意味も必要性も感じていなかった。
ただ、見ているつもりだった。
彼が飛び散って、霧散する様を目に焼き付けるつもりだったのだ。
「……あの」
場所を移動した後に初めて口を開いた彼の声は、周りの雑音にかき消されそうなほど小さかった。
年齢は男と同じぐらいか、少し下くらいに見える。
「……ええっと」
男は頭をかきむしりながら、彼に言うべき言葉を探す。
何を言う?
何が言える?
そもそも、俺はなんで助けたんだ――
答えあぐねている男に対し、彼はうつむき加減ながらもしっかり男を見据えていた。
彼の顔には少し困惑が見える。
しかし、表情自体はいまだ初めて見たときのままだ。
男は言葉を探すように、ゆっくり彼に問いかけた。
「……飛び込むつもりだったんですよね?」
「……はい」
彼は少し驚いたような顔をしたが、狼狽えるようなことはなかった。
彼も、男に意思を持って止められたという事実に気づいていたらしい。
今、彼が知りたいのは止めた理由。
そして、どうして彼が動き出す前に気づけたかという疑問だ。
……ただし、自身の行動に疑問を持っているのは男も同じである。
男自身もうまく説明できそうにない。
なのでとりあえず、自分のことを話すことにした。
「俺も、飛び込もうと思っていたんです。さっきの電車に」
「えっ」
今度は、本当に意外そうな表情を見せた。
「今朝はその決意をして、家を出たんです。決意を持って、あの場所に立っていたんです」
「……」
「そして、あなたを見つけました」
「……」
「……あなたの決意にも気づけたのは、そのせいなのかも知れません」
男は父親のことは伏せて話した。
言うべきではないと思ったのだ。今は。
彼は、何も言わずに聞いている。
きっと、話す気力が無いのではなく、彼本来の性格がそうさせるのだろうと男は思った。
しかし、そう思ったのも束の間、彼は急に口を開く。
「……止めたのは、正義感ですか?」
「……正義感?」
「同じことを思っていたあなたが、私の行いを否定するのですか」
そう言った彼の目に、初めて感情が宿った。
怒りだ。
自らの死すら否定された。そのことに対する心の底からの怒りだ。
……男にもその気持ちは、痛いほどわかる。
なぜそんなくだらない感情を、よりにもよって今の自分に向けたのだと彼は思っているのだ。
ただ、自分の行為の源泉は、正義感などではない。
男にとって、それだけははっきりしていた。
「……正義感では、ありません」
「じゃあ、なぜ私を、あのままにしておいてくれなかったのですか」
声は小さい。
しかし、確かな熱を持った彼の問い。
男にとって、人からこんなに真剣な感情を向けられたのは、いつぶりだろうか。
その真剣に答えるように、男も答えを自分の中に探す。
――多分、俺は彼を生かしたかったわけじゃない。
……そうして出てきた言葉は、うつろな彼の目を見開かせる日は十分だった。
「とりあえず、俺と、なんかこう、パーッと遊びに行きませんか?」
「……は?」
彼の顔から怒りが消え、さっき以上の困惑の色がついた。
当たり前だ。
男自身も、突拍子のないことを口にしているとわかっている。
それを承知でポツポツと、その発言の意図を口にした。
「実は自分でもよくわからないし、ここで考えても、答えが出そうにないんです」
「……」
「ただ、そうだな……少し話がしたかったのかもしれない」
彼は先程と同じく、静かに耳を傾けている。
「私と同じ時間、私と同じ場所で、同じことを考えていたあなたに、無意識なにかを感じ取ったのかもしれません」
「……」
「月曜日が、嫌だったんですよね?」
「……はい」
「私もです。でも」
「……でも?」
「どうせ死ぬなら。この月曜日を全力で楽しんでみませんか? 思いっきり、遊ぶんですよ。馬鹿みたいに」
詭弁だ。
この場をつなぐだけの、ただの狂言だ。
そんなことが彼を止めた原因ではないこと男は気づいている。
……ただ、急に口から出たその言葉も、嘘ではないことも理解していた。
「今日だけは全力で逃げましょう。嫌なことからも、仕事のことからも。月曜日に絶望しているやつも、希望を持っているやつもみんな引っくるめて、思いっきり馬鹿してやるんです」
「……馬鹿に」
「思いっきり楽しんでやりましょう、月曜日ってやつを。お互い、死ぬのはそれからでいい」
男はそう言い終わった後も、なぜ自分がそんなことを言ったのか、なぜ自分がそんなことを感じているのか、まだ掴めていなかった。
月曜日を楽しむ。
男は自身の口から、そんな言葉が出るなどと夢にも思っていなかった。
ただ男にとって、自分と同じような考えを持った仲間に出会えたことは、素直に嬉しかったらしい。
「……」
そんな男の話を、彼はずっと黙って聞いていた。
返事はない。
……そりゃそうか。
見知らぬ男に突然こんなことを言われたのだ。
しかも、さっきまで同じようなことを考えていた男だ。
どこかネジが外れたやつだと思われているに違いない。
男はそう思っていた。
そして、謝ってこの場を離れようとしていた。
「……お話はわかりました」
しかし、先に彼はゆっくり口を開く。
表情には相変わらず困惑が見える。
ただ、心なしかさっきより表情が明るくなっているようだった。
「……今の、わかったんですか」
「いや、あなたが言い出したんでしょ」
「まあ、そうなんですけど」
「……」
返事はせず、彼は急に駅の出口の方へ体を向けた。
「とりあえず、お腹が空いてきました。そういえば、朝ごはんを食べていません」
そう言って、彼はその長くはないがスラッとした足を動かし始める。
思っていたより、力強い足取りだ。
そして、彼のひと言で、男は自分の腹の虫が泣き始めたことに気づいた。
男はここ最近、ろくに食べ物を口にしていない。
それどころか、昨日からなにも食べていないのだ。
男はここまできて、ようやく自分が空腹であると認識した。
「……さっきまでよく動いてたな、俺」
自分の中に残っていた生命力に驚きながらも、男は彼を追いかける。
こうして男2人、最初で最後の奇妙な月曜日が始まった。
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おっと、文字数を大きく超過してました。ここで終了します。
以上、家鴨あひる3回目の3000文字チャレンジでした。